唐津くんちの由来・歴史
「唐津くんち」とは唐津神社の秋季例大祭(しゅうきれいたいさい)の事をいいます。くんちとは「供日(くにち)」が九州の方言で訛ったものとも言われ、九州北部地方では秋祭りの事を「くんち」と呼ぶ地域が多くあります。お供えの日と書くことから、秋の実りを神様にお供えして五穀豊穣に感謝するお祭りであることがわかります。(諸説あります)
唐津くんちの御神輿の渡御は江戸時代の寛文年間(1661~1673)頃に始まったと伝えられております。曳山は御神輿にお供して神様を警護する目的で造られました。現在伝わる曳山が誕生したのは氏子町の一つである刀町が赤獅子を文政2年(1819)に唐津神社へ奉納したのが始まりで、それ以後明治9年まで57年の間に15台の曳山が製作され、その内一台が明治中期に損滅し、現在14台が現存しています。
製作には3年前後を費やしたと言われ、木組み・粘土で原形をつくりその上から和紙を数百回張り重ね、麻布を張り、漆を塗り重ね、金銀を施して仕上げたものです。1台あたりの重さは2~4トンあり、1台あたり曳き子200~400人で曳いています。曳山は昭和33年に佐賀県の重要有形民俗文化財に指定され、唐津くんちの曳山行事として昭和55年に国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
祭礼日/毎年11月2日・3日・4日
ところ/佐賀県唐津市・唐津神社周辺
唐津くんちの御神輿の渡御は江戸時代の寛文年間(1661~1673)頃に始まったと伝えられております。曳山は御神輿にお供して神様を警護する目的で造られました。現在伝わる曳山が誕生したのは氏子町の一つである刀町が赤獅子を文政2年(1819)に唐津神社へ奉納したのが始まりで、それ以後明治9年まで57年の間に15台の曳山が製作され、その内一台が明治中期に損滅し、現在14台が現存しています。
製作には3年前後を費やしたと言われ、木組み・粘土で原形をつくりその上から和紙を数百回張り重ね、麻布を張り、漆を塗り重ね、金銀を施して仕上げたものです。1台あたりの重さは2~4トンあり、1台あたり曳き子200~400人で曳いています。曳山は昭和33年に佐賀県の重要有形民俗文化財に指定され、唐津くんちの曳山行事として昭和55年に国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
祭礼日/毎年11月2日・3日・4日
ところ/佐賀県唐津市・唐津神社周辺
・11月2日「宵山」唐津市大手口19:30出発
提灯の灯りに照らされた14台の曳山が唐津の城下町を廻ります。
19:30火矢の合図で唐津市大手口より一番曳山「赤獅子」が出発。途中で各町が建制順に合流しながら巡行した後、22:00頃に唐津神社前に整列します。
提灯の灯りに照らされた14台の曳山が唐津の城下町を廻ります。
19:30火矢の合図で唐津市大手口より一番曳山「赤獅子」が出発。途中で各町が建制順に合流しながら巡行した後、22:00頃に唐津神社前に整列します。
・11月3日「お旅所神幸」唐津神社前9:30出発
この日の朝5:00、唐津神社と所縁のある神田地区の青年達が神前にて獅子舞を奉納し、邪気を清祓います。口元をカブカブと動かすところから「カブカブ獅子」と呼ばれています。
9:30を回ると御神輿にお遷りになった大神様は唐津神社を出発され、顕現なされた西の浜へ曳山を従えながら町中を神幸されます。正午には唐津くんち最大の祭事であるお旅所祭が斎行されます。曳山の車輪が砂地に食い込みながらも曳子衆が懸命に曳山を曳く姿は大勢の見物客を魅了します。
・11月4日「町廻り」(翌日祭)唐津神社前10:00出発
翌日祭では御神輿は出ず、曳き子と曳山が町中を巡行します。夕刻には唐津神社横の曳山展示場へ曳き納められ、曳き子達は曳山との別れを惜しみます。曳山は来年まで眠りにつきます。
【唐津くんちの曳山行事】国・重要無形民俗文化財(昭和55年1月28日指定)
【唐 津 曳 山14台】県・重要有形民俗文化財(昭和33年1月23日指定)
【唐津神祭行列図・富野淇(とみのき)園(えん)作】市文化財(重要民俗資料)(昭和47年9月1日指定)
【唐津くんちの曳山行事を含む日本の山・鉾・屋台行事33団体】
ユネスコ無形文化遺産(平成28年12月1日指定)